音楽もなく,だれもおらず,何もないブログ

沈黙について,誰が黙り得るだろうか

2021-12-18

https://twitter.com/matu_ryuta/status/1459525312262279172?s=20

 

https://twitter.com/matu_ryuta/status/1461333403639242755?s=20

 

https://twitter.com/matu_ryuta/status/1462367686638268424?s=20

 

https://twitter.com/matu_ryuta/status/1466052087045705734

 

https://twitter.com/matu_ryuta/status/1471072526550056960?s=20

 

 一連の漫画に於て,堀江親子は完全に分離した二つの自立した主体として屹立する。「親が子を生んだ」という歴史的事実以外,二つの主体を結びつけることはない。所謂近親相姦の罪の薫りを一寸も感じ得ぬ。リベラリズム的な,余りにリベラリズムな漫画といえよう。個人は自由である。この漫画世界では未成年者(ひょっとするとこの世界にはこの言葉は存在しないのかもしれない)にもフルスペックの人権が認められている。ではこの漫画の舞台である学校,(建前上)未成年者を規律・訓練するはずの場所は何の為に存在するのだろうか。

 

 また親子以外の名のある登場人物,桐生清華が先に堀江父と目合い,男の外延を即座に堀江子の象徴へと置換するのは,どのような効果を生むのか。セックスの本来的な暴力性を薄めるとだけでは説明し得ぬ。そして読者の身体はどこにあるのか。2枚目以降読者は堀江父の視点を有しているかにみえるが,同時に桐生清華の内面とソープランドの他の客(名のない声)を聴いている。読者はこのソープランドに「住んでいる」とでもいえようか。

 

映されぬ堀江父の顔や,巧妙にコピペされた2枚目と3枚目の男根の効果,ソープランドの内(密閉・ローション風呂→女性器のメタファー)と外(四角い輪郭と顔の情報)などについても説話者は雄弁に語り得るが,一先ずはここで終わるとしよう。

 

・今日聞いたレコード/CD(◎印はお気に入り)

Gerry Mulligan / Mulligan Plays Mulligan (Prestige,1951),◎

・Johnny Lytle / Happy Ground (Jazzland,1961),◎

・Johnny Lytle / The Loop (Tuba,1965),◎

・Johnny Lytle / New and Groovy (Tuba,1966)

・Johnny Lytle / Fast Hands (Muse,1980)